観察は次元をこえる
細胞について考えてみます。
というよりも、細胞について観察するといいうことを考えてみます。
細胞を観察するという行為は、前頭葉ゲシュタルトを介した電磁干渉による認知です。
では、細胞は内観できるでしょうか?
そもそも細胞という概念は、電子顕微鏡があって初めて、認知されました。
確かに、外在には存在しているのであるから、内観できるはずです。
この問いは、宇宙の果てを外在観測することと同じなのかもしれません。
また、細胞内には複雑な構造が見て取れます。
これに対応する後頭葉ゲシュタルトは、一体何にあたるのでしょうか?
ここで、もう一度、観測行為というもの自体を考えて見ます。
観測行為自体、次元転換をしているのではないでしょうか?
次元転換というよりも、同一次元への繰り込み?情報の押しつぶし?
どういう表現を取っていいのかまだわかりませんが、電磁干渉の畳み込みにっよって見ている世界が外在観測なのです。
科学が進歩するということは、観測装置が進歩するということです。
その観測装置は、必ず電磁現象による観測に還元されますから、現代科学が精密に観測すればするほど、リアリティーの電磁干渉の繰り込みを見ていることになります。
そうして電子顕微鏡で見つけら細胞とは、一体何なんでしょうか?
もちろん、電波望遠鏡でみた宇宙のはても同じです。
これは、私の妄想、しかし確信的!
なのですが、宇宙の果ては細胞そのものを次元繰り込みした、前頭葉ゲシュタルト表現なのです。
では、なぜ物理学においては、素粒子が基本単位になるのか?
これは、前頭葉ゲシュタルトを構成している基本単位だからです。
つまり、素粒子は宇宙を構成する基本単位ではなく、前頭葉ゲシュタルト宇宙という限定された宇宙の基本単位に過ぎないということです。
では、内観による観測行為は、一体何なのか?
これは、次元の押しつぶしをせずに、直接観測可能にします。
それを一般的に体感といいますが、今のところ、そういう風にしか言えないのかもしれません。
このことを、外在ゲシュタルトで無理やり表現すると、次元上昇という言葉が出てきてしまいます。
しかし、単純に前頭葉ゲシュタルトのくびきから解放され、後頭葉ゲシュタルトをも含んだ宇宙認知に移行するというだけです。
だからと言って、何かが劇的に変わるかというと、何も変わりません。
元の木阿弥・・・