フォノグラム(音の図形)

フォノグラム(音の図形)シーズン2nd、3rdを再アップしていきます。12KENや前頭葉ゲシュタルトなど、フォノグラム研究が新たなステージに入るまでの道しるべです。

生まれたときの記憶

 

もし、胎児のときの記憶が、前頭葉ゲシュタルト表現であるならば、それは妄想ということになります。

前頭葉ゲシュタルトとは、外在世界の視覚イメージです。

 

ふつう、人はこれに慣れ親しんでいます。

ですから、生まれたときの記憶をこのイメージに結びつけるため、解剖学的な子宮の中に、胎児である自分がいるイメージを抱きやすいということです。

しかし、胎児がそんな外在イメージを持っているわけはないのです。

 

もし、そういうイメージを持っていたとしたら、魂が外から自分の体を見ており、そしてどっかのタイミングで、受肉したことになります。

 

※しかし、この前頭葉ゲシュタルトイメージの死後への持越しこそが幽界であり、

アートマ(個我、幽霊)です。

だから、幽霊は電磁機械と干渉することが出来ます。

つまり、神様のもと(ブラフマー)から来たのではないということになってしまいます。

ひょっとしたらこのことを輪廻転生というのかもしれません。

 

 

生まれたときの記憶というのは、やはり、ただの感覚(サマディー)のことです。

そこに何かのイメージがあったら、それは妄想です。

ここをごちゃごちゃにしたのが、スピリチュアルの世界です。

 

前頭葉ゲシュタルトを、死後も持ち越してしまった電磁世界が、幽界です。

前頭葉ゲシュタルトは、フォノグラムで言えば、渦巻きフォノグラムです。

釈迦がアートマ存在(個我)を明確に否定した理由がわかります。

 

全ての人型をした神々は、前頭葉ゲシュタルトである観念妄想であることが、結論されます。

もちろん、この4次元時空宇宙も妄想ということになりうのでしょうが、そのくらい霊的世界も、リアルな妄想世界なのだと思います。

内臓の後頭葉ゲシュタルト表現がチャクラ

身体の前頭葉ゲシュタルト表現が解剖学的身体です。

 

内観は後頭葉ゲシュタルト認知ですから、その感覚を、前頭葉ゲシュタルトである現代科学で表現するとナンセンスとなります。
内観である後頭葉ゲシュタルト世界を、自然言語で表現したのが宗教であり、前頭葉ゲシュタルトである現代科学で説明しようとした動きが、ニューサイエンスです。

 

この説明で分かるように、前頭葉ゲシュタルト認知世界にとどまり続けて議論しているのが、科学者です。
だから、その世界の外に出てしまうような研究は選びません。
ナンセンスになってしまうからです。

 

前頭葉ゲシュタルト世界を飛び出し、後頭葉ゲシュタルト世界のことを科学的に表現することは、
これまたゲシュタルト表現が異なるため、おかしくなってしまいます。

これが、内在科学がいつまでも進歩できない根本原因です。

 

現代科学の体を成すには、いくつかの条件が必要です。

実証可能性

記述可能性

などです。

 

実証可能とは、再現可能な実験により確認できるといううことです。

記述可能性とは、極端に言ってしまえば数学で記述できるということです。

真偽の証明が可能な表現フォームに落とし込むことです。

これらはみな、4次元時空マトリクスである電磁現象内の話ですので、前頭葉ゲシュタルト表現です。

 

新しい科学とは何でしょうか?

後頭葉ゲシュタルト世界における認知とともに、その表現法を確立することです。

それは、客観性とともに再現性がなくてはなりませんが、観測概念が変わります。

内観は後頭葉ゲシュタルトなので、電磁観測とは根本的に異なる観測であることに注意です。

 

フォノグラムは量的計測、および、客観性(共同主観)が可能であり、
対称性の言葉で表現可能であることから数学表現が可能です。
ただし、音を観ているという、すでに前頭葉ゲシュタルトではありえない現象を扱うため、
外在のアナロジーではうまくいかないことに注意です。

 

しかし、ここで、

光を見る

音を聞く

の、音と光の入れ替えに対して、不変な現象とはなにか??

というような考え方は、素粒子物理の対称性の議論と何ら変わりはありません。

つまり、後頭葉ゲシュタルト世界においても、対称性を記述する群論は有効ということが言えるのではないかと思います。

 

我々人間は、前頭葉ゲシュタルトと同時に後頭葉ゲシュタルトの重なった状態で、生きているのが常です。
いくら科学原理主義者であっても、お腹が空いてきたことを、内観を通して理解するはずですし、
うんこするときも前頭葉で解析した結果、うんこするわけではありません。

すると、これをごちゃまぜにしたゲシュタルト表現を普段使うことになります。

日常言語ってそんな感じじゃないでしょうか?

これが自然な表現なのです。

 

この普通の状態において、ゲシュタルト次元階層のどの辺にいるかによって、
そのひとの意識状態、およびパーソナリティーが決まります。

ゲシュタルト次元階層の極を、

地球とアルザル

と考えたとき、
地球とは前頭葉ゲシュタルト次元と、その表現世界のことであり、
アルザルとは後頭葉ゲシュタルト次元と、その表現世界のことです。

この間に無数のゲシュタルト次元があり、地球とアルザルの中間領域ももちろんあります。

 

チャクラとは何か?

これを前頭葉ゲシュタルト表現の中に見出すことはできないが、位置の対応は可能な概念です。

つまり、チャクラの概念は、アルザルと地球の中間地点の概念であり、前頭葉ゲシュタルト後頭葉ゲシュタルトの混じった表現なのです。
入定すれば、チャクラも身体概念も共に消え去ります。

 

この前頭葉ゲシュタルト表現と後頭葉ゲシュタルト表現は相対的な関係にあり、また、シーソーのような関係でもあります。

ここをうまく詰めることが出来れば、しっかりとした新しい科学になるはずです。

 

新しい科学とは、後頭葉ゲシュタルト認知、および、その表現法の創出といっていいと思います。

12KEN、等音面理論、フォノグラムはそれらのための研究の第一歩なのです。

電磁場の後頭葉ゲシュタルト表現が意識波動

謎が解けました!
しかし、まだうまく表現できていないかもしれません。

眠っている時は前頭葉が鎮まるため、そのゲシュタルトである3次元時空及び、解剖学的身体は、自覚認知できません。
夢を見ている場合には、3次元時空マトリクスのくびきから自由になっているため、前頭葉ゲシュタルトの制限を超えた認知をします。

夢で空飛んだり。

知恵(前頭葉)の発達と筋肉の発達は比例します。

したがって、男性は観念的であり、
女性はより、生命に近いところから物事を判断します。
子宮で考えるって奴です。

 

電磁場そのものが前頭葉ゲシュタルト表現なので、前頭葉の電位が下がった睡眠時では、電磁場の知覚表現そのものが変わります。

後頭葉ゲシュタルト認知に移行するため、前頭葉ゲシュタルト表現における解剖学的身体がなくなっていきます。
つまり、前頭葉後頭葉という区別や認識法が出来なくなります。

 

臓器とは、このように、ゲシュタルト次元の異なるものが前頭葉において、同次元に射影された影なのです。
電磁気自体が後頭葉ゲシュタルトに移行すると同時に、電磁気現象そのものがなくなります。

なぜなら、電磁気現象そのものが前頭葉ゲシュタルト表現だからです。
その時、フォノグラムは渦巻き表示されます。
電磁気が後頭葉ゲシュタルトに移行したとき、それは、意識波動として認知され、それがフォノグラムにおけるフラクタル曼荼羅表現になります。

 

フォノグラムは、前頭葉ゲシュタルト後頭葉ゲシュタルトの変化を、両ゲシュタルトをまたいで連続移行しています。
これが、脳軸変化とそれに伴う、フォノグラム図形の変化及び、ゲシュタルト認知の変化を定量的に観察可能にします。

電子というものは、後頭葉ゲシュタルトにおいては、存在しないことになります。
内在における内観電磁場は、意識波動として捉えられ、それは外在における電磁気とは違い精妙な波動です。
お祓い作用のある神社で起きる反応がこれです。

 

つまり、結論としては、

電磁場と意識波動(振動)は同じもの

ということが出来ます。

 

これに気が付くと、フォノグラムが23.46を通り、渦を巻きや前頭葉ゲシュタルトが発生することと、脳内電位をキャンセルアウトし、振動(意識波動)だけになることが連続変形できることに、全く矛盾が発生しなくなります。

 

ゲシュタルトの移行及び、その表現を注意ぶかく考察しなおすことで、人間の身体の各部位の新しい定式化が可能となります。

解剖学的定義は、次元別ゲシュタルト表現であるはずの各内臓器官を、前頭葉ゲシュタルト同一次元に押しつぶした表現に過ぎないということです。

前頭葉の発達と筋肉の発達は比例することから、胎児のときの成長、もっとさかのぼって受精卵が細胞分裂していく過程を、後頭葉ゲシュタルトから知る必要があります。

この時の記憶は、前頭葉記憶ではありえず、前頭葉ゲシュタルト表現にはならないはずです。

ある種の感覚だけの認知が後頭葉ゲシュタルト認知で、サマディーや入定といわれていることであると思います。
外在において、細胞というのは電磁場による影響はどの程度のものなのか、関心があります。

 

また、子宮は高次元内臓器官であることがわかります。
神社が子宮を模しており、それを拝む風習が日本にあることが、
とても興味深いです。

ビッグバーンの体感とその知的理解について

 

記事が難解になりつつあります。

単なる推測の域を出ないキチガイ妄想とスルーしていただければ幸いです。

でも読んでほしいです。

本人一番力入れてるところです。

 

とにかくメモしておかないと忘れてしまうし、メモしてもすぐ無くしてしまうのでブログにしておくのが一番安全です。

 

昔の禅僧、神秘家などが到達した世界観と、素粒子物理学の到達している世界観が酷似していることは、ずっと前から知られています。

いわゆるニューサイエンスですが、フリンジ分野です。

 

ていうか、人間存在が思い切りフリンジなんですけど~

 

最近ではさらにエスカレートして、スピやチャネリング情報、何でもありの世の中になってしまいました。

なんで、粒子加速器がない時代の大昔の坊さんが、現代物理学の最先端のその先に行けるのか?

これについて、最近の考察の中心話題である、前頭葉ゲシュタルト後頭葉ゲシュタルトの観点から見直してみたいと思います。

 

まず、ビッグバーンがあると仮定して(あくまでも仮定です)、それを肉体の五感認知をすることはできません。

宇宙開闢の時、生命は存在せず、肉体がないから当たり前です。

したがって、後頭葉前頭葉も何にもないわけです。

 

しかし、認知するというのは肉体がなくても意識さえあればできます。

これをおそらく真我と定義してもよいでしょう。

つまり、真我は、ビッグバーンを体感できる。

 

体がないのに体感という言葉を使っています。

体感すらも認知している観察対象者が真我です。

この真我による認知を何と呼びましょうか?

このビッグバーンの瞬間は、観察対象である宇宙と、観察者である意識の分離がなくなり、主客の対称性が復活しますから、それをもって梵我一如と言ったのだと思います。

 

ここで、知的理解とは何かについて考えます。

それは、ズバリ、「前頭葉ゲシュタルトによる表現フォームに落とし込む」ことです。

前頭葉ゲシュタルトとは、前頭葉の電位が上がり、この宇宙を4次元時空のように見せ

それを、厳密な数学として表現可能な認識フォームです。

 

数学という表現フォームは、前頭葉ゲシュタルトを表現するためのものです。

なぜなら、線形時間と3次元空間がなければ、論理も幾何学も存在できないからです。

 

※群の概念だけは前頭葉ゲシュタルトをはみ出していると思います。

外在物理だけでなく内在におけるゲシュタルトの記述に関しても、ある程度有効であると思います。

私の研究は、この部分だけに終点を当てています。

もちろん、それでは記述できないこともありますが、そこは言説不可得として黙る道を選択します。

言説不可得とした、もうちょっと先まで言説可能ではないか?

というところが研究のモチベーションです。

 

 

これに対して、自然言語、特に日本語は、前頭葉ゲシュタルトだけでなく

より直感的な後頭葉ゲシュタルトにおける認知フォームを記述することにたけています。

数学という言語は、他の解釈が入り込まない一義的な定義から始まるからこそ排中律が働き、厳密に証明が可能な表現になっています。

 

しかし、自然言語というのは、多義性を含んでおり、解釈の幅はいくらでも可能となります。

宗教の経典が自然言語で書かれているがゆえに、その解釈が異なり、宗派が沢山出来てしまう理由でもあります。

 

どちらがどうということではなく、そういうものだということなのです。

ゲシュタルトが異なれば、その表現法も異ならざる負えないということが重要なポイントです。

 

ここで、前頭葉ゲシュタルトの極である、現代物理学に目を向けて見ます。

面白いことに、前頭葉ゲシュタルトの極である量子力学においては、前頭葉ゲシュタルトが崩壊統合され始めるのです。

 

物理量というのは、前頭葉ゲシュタルトの基本を構成している時空間(それは電磁現象)などの次元を基に定義されます。

 

WIKI抜粋

次元: 量の次元(りょうのじげん、英: dimension of a quantity)とは、ある量体系に含まれる量とその量体系の基本量との関係を、基本量と対応する因数の冪乗の積として示す表現である[1][2]。 ISOやJISなどの規格では量 Q の次元を dim Q で表記することが規定されている[1]が、しばしば角括弧で括って [Q] で表記される

 

これが崩壊統合していく過程の現われが量子論の確率解釈だったりします。

量子力学の記述法には4つの同値な数学表現が可能であることが知られています。

 

微分方程式による記述であるシュレディンガー形式

可換代数によるハイゼンベルク形式

変分原理で書き直したファイマン経路積分

そして確率過程量子化

 

これらは、同じ現象を、ちょっとずつ認知パラメータを変えることによって理論形式に違いが出てくるが、本質的には全く同じだということなのです。

さらに、超対称性理論まで行くと超空間というものが現れ、前頭葉ゲシュタルトにおける基本次元である、時間、空間、などのアプリオリなパラメータが消えてしまいます。

 

私たちは、外に向かって進んでいくことにより、外在物理学においてもゲシュタルトの統合、崩壊現象にぶち当たることになります。

なんでこんなことが起こるのか?

これは数学の適応限界が、外在物理を張り出していることに起因しているのです。

ここに、物理観測よりも早く数学理論が生み出される理由があります。

 

今度は、内観によって、内在世界に意識を向けていきます。

これは、もはや、前頭葉認知フォームではないので、外在物理学を当てはめることはナンセンスになります。

ここの取り扱いの理解を進めていかないと、いつまでも科学と疑似科学の間を埋めることはできません。

 

誤解を恐れずに言ってしまえば、両方とも不完全なのです。

 

内観による後頭葉ゲシュタルトの表現フォームは、宗教や神秘家が経典という形で残したものです。

こちらは数式では書き表せません。

前頭葉ゲシュタルトではないからです。

 

※解剖学は前頭葉ゲシュタルトによる表現フォームなので、内観した世界にそのまま対応付けるのは無理があります。

 
もしも、後頭葉ゲシュタルト表現で、前頭葉ゲシュタルト表現が持つような客観的記述と量的記述が可能な方法があるとすれば、それは私の知る限りフォノグラム研究しかないと思います。
そして、それは数学表現としては外在物理学と同じように、対称性の言葉で書かれます。
 
音響対称性を身体において実現していけば、そのフォノグラムは等音面曼荼羅になっていきます。 
この時、ビッグバーンを体感しているといっても過言ではありません。 
内在における高エネルギー状態は、外在における高エネルギー状態と一致してしまいます。
 つまり、同じ宇宙開闢を前頭葉ゲシュタルトで見ているのか、後頭葉ゲシュタルトで見ているのかの違いだけだからです。
 これが、古代の神秘家が、粒子加速器もないのに、素粒子物理学の世界観と同じところに到達していた理由です。
 
また、高エネルギー状態においては、内在も外在も似た表現にならざる負えません。
なぜなら、主客の分離が回復していくため、超対称性が回復することになり、そこでは同じ現象の裏表がほとんど一緒だからです。 
そして、もし、人間の知的理解というものが前頭葉ゲシュタルトによる表現形式であるならば、それは数学表現ということになるでしょう。
 
内在においてもこれが可能だということです。 
もちろん、ほんのちょっと内在に、その適応限界を広げるだけにとどまるでしょうが、それ以上は、黙って座って微笑んでいるほうが私の流儀にかないます。
 

これからの記事内容は、このようなことをしかっりまとめた形で、書こうと思います。

しばらくはガンガン進んでみようと思います。