ビッグバーンの体感とその知的理解について
記事が難解になりつつあります。
単なる推測の域を出ないキチガイ妄想とスルーしていただければ幸いです。
でも読んでほしいです。
本人一番力入れてるところです。
とにかくメモしておかないと忘れてしまうし、メモしてもすぐ無くしてしまうのでブログにしておくのが一番安全です。
昔の禅僧、神秘家などが到達した世界観と、素粒子物理学の到達している世界観が酷似していることは、ずっと前から知られています。
いわゆるニューサイエンスですが、フリンジ分野です。
ていうか、人間存在が思い切りフリンジなんですけど~
最近ではさらにエスカレートして、スピやチャネリング情報、何でもありの世の中になってしまいました。
なんで、粒子加速器がない時代の大昔の坊さんが、現代物理学の最先端のその先に行けるのか?
これについて、最近の考察の中心話題である、前頭葉ゲシュタルトと後頭葉ゲシュタルトの観点から見直してみたいと思います。
まず、ビッグバーンがあると仮定して(あくまでも仮定です)、それを肉体の五感認知をすることはできません。
宇宙開闢の時、生命は存在せず、肉体がないから当たり前です。
しかし、認知するというのは肉体がなくても意識さえあればできます。
これをおそらく真我と定義してもよいでしょう。
つまり、真我は、ビッグバーンを体感*できる。
*体がないのに体感という言葉を使っています。
体感すらも認知している観察対象者が真我です。
この真我による認知を何と呼びましょうか?
このビッグバーンの瞬間は、観察対象である宇宙と、観察者である意識の分離がなくなり、主客の対称性が復活しますから、それをもって梵我一如と言ったのだと思います。
ここで、知的理解とは何かについて考えます。
それは、ズバリ、「前頭葉ゲシュタルトによる表現フォームに落とし込む」ことです。
前頭葉ゲシュタルトとは、前頭葉の電位が上がり、この宇宙を4次元時空のように見せ
それを、厳密な数学として表現可能な認識フォームです。
数学という表現フォームは、前頭葉ゲシュタルトを表現するためのものです。
なぜなら、線形時間と3次元空間がなければ、論理も幾何学も存在できないからです。
※群の概念だけは前頭葉ゲシュタルトをはみ出していると思います。
外在物理だけでなく内在におけるゲシュタルトの記述に関しても、ある程度有効であると思います。
私の研究は、この部分だけに終点を当てています。
もちろん、それでは記述できないこともありますが、そこは言説不可得として黙る道を選択します。
言説不可得とした、もうちょっと先まで言説可能ではないか?
というところが研究のモチベーションです。
これに対して、自然言語、特に日本語は、前頭葉ゲシュタルトだけでなく
より直感的な後頭葉ゲシュタルトにおける認知フォームを記述することにたけています。
数学という言語は、他の解釈が入り込まない一義的な定義から始まるからこそ排中律が働き、厳密に証明が可能な表現になっています。
しかし、自然言語というのは、多義性を含んでおり、解釈の幅はいくらでも可能となります。
宗教の経典が自然言語で書かれているがゆえに、その解釈が異なり、宗派が沢山出来てしまう理由でもあります。
どちらがどうということではなく、そういうものだということなのです。
ゲシュタルトが異なれば、その表現法も異ならざる負えないということが重要なポイントです。
ここで、前頭葉ゲシュタルトの極である、現代物理学に目を向けて見ます。
面白いことに、前頭葉ゲシュタルトの極である量子力学においては、前頭葉ゲシュタルトが崩壊統合され始めるのです。
物理量というのは、前頭葉ゲシュタルトの基本を構成している時空間(それは電磁現象)などの次元*を基に定義されます。
*WIKI抜粋
次元: 量の次元(りょうのじげん、英: dimension of a quantity)とは、ある量体系に含まれる量とその量体系の基本量との関係を、基本量と対応する因数の冪乗の積として示す表現である[1][2]。 ISOやJISなどの規格では量 Q の次元を dim Q で表記することが規定されている[1]が、しばしば角括弧で括って [Q] で表記される
これが崩壊統合していく過程の現われが量子論の確率解釈だったりします。
量子力学の記述法には4つの同値な数学表現が可能であることが知られています。
変分原理で書き直したファイマン経路積分
そして確率過程量子化法
これらは、同じ現象を、ちょっとずつ認知パラメータを変えることによって理論形式に違いが出てくるが、本質的には全く同じだということなのです。
さらに、超対称性理論まで行くと超空間というものが現れ、前頭葉ゲシュタルトにおける基本次元である、時間、空間、などのアプリオリなパラメータが消えてしまいます。
私たちは、外に向かって進んでいくことにより、外在物理学においてもゲシュタルトの統合、崩壊現象にぶち当たることになります。
なんでこんなことが起こるのか?
これは数学の適応限界が、外在物理を張り出していることに起因しているのです。
ここに、物理観測よりも早く数学理論が生み出される理由があります。
今度は、内観によって、内在世界に意識を向けていきます。
これは、もはや、前頭葉認知フォームではないので、外在物理学を当てはめることはナンセンスになります。
ここの取り扱いの理解を進めていかないと、いつまでも科学と疑似科学の間を埋めることはできません。
誤解を恐れずに言ってしまえば、両方とも不完全なのです。
内観による後頭葉ゲシュタルトの表現フォームは、宗教や神秘家が経典という形で残したものです。
こちらは数式では書き表せません。
※解剖学は前頭葉ゲシュタルトによる表現フォームなので、内観した世界にそのまま対応付けるのは無理があります。
もしも、後頭葉ゲシュタルト表現で、前頭葉ゲシュタルト表現が持つような客観的記述と量的記述が可能な方法があるとすれば、それは私の知る限りフォノグラム研究しかないと思います。
そして、それは数学表現としては外在物理学と同じように、対称性の言葉で書かれます。
音響対称性を身体において実現していけば、そのフォノグラムは等音面曼荼羅になっていきます。
この時、ビッグバーンを体感しているといっても過言ではありません。
内在における高エネルギー状態は、外在における高エネルギー状態と一致してしまいます。
つまり、同じ宇宙開闢を前頭葉ゲシュタルトで見ているのか、後頭葉ゲシュタルトで見ているのかの違いだけだからです。
これが、古代の神秘家が、粒子加速器もないのに、素粒子物理学の世界観と同じところに到達していた理由です。
また、高エネルギー状態においては、内在も外在も似た表現にならざる負えません。
なぜなら、主客の分離が回復していくため、超対称性が回復することになり、そこでは同じ現象の裏表がほとんど一緒だからです。
そして、もし、人間の知的理解というものが前頭葉ゲシュタルトによる表現形式であるならば、それは数学表現ということになるでしょう。
内在においてもこれが可能だということです。
もちろん、ほんのちょっと内在に、その適応限界を広げるだけにとどまるでしょうが、それ以上は、黙って座って微笑んでいるほうが私の流儀にかないます。
これからの記事内容は、このようなことをしかっりまとめた形で、書こうと思います。
しばらくはガンガン進んでみようと思います。